昭和57年1月8日   朝の御理解

                    
x  御理解第62節                    
 「昔から人もよければ我もよけれ人より我が尚よけれと云うて居るが神信心をしても我身の上のおかげを受けて後に人を助けてやれ神信心も手習いも同じ事一段一段進んで行くのぢや俄に先生にはなれぬぞ」


 お道の信心が素晴らしいと言うのは、まあ色々ありますけれども、教えが十全であると言う事ね。そこをまず分からせて貰うね。その十全の御教えが一遍に分かれば分かっても、それが身に付くとは思われませんけれどもね。
 そう言う御信心を合楽理念に基づいて日々稽古させて頂いておるんだと言う所から、言うならば確信に満ちた生活が段々出来るようになってくる。昨日お話し申しましたように池田先生所の霊神様、霊祭の時に頂いた。どんなに船が今にも転覆するかのようにあっても中に乗っておる、まあ霊様と思われる二柱の霊様と思われる方達が、もう平然としてその今にも転覆しそうな船に乗っておられるという御心眼を頂いてハハアー結局安心の霊としてのおかげを受けておられるなあと言う事でした。と言うのはいうなら合楽理念に基づいて泳ぎの術を体得しておられる霊様だと思ったんですね。
 ですからよし転覆してもそこには親船が見えておるんですから、あの転覆しても泳ぎが泳ぎ分かっておりますから、泳いであそこまで泳いでいけばよいと言うそのまあ安心があるわけですね。と言うようにです、私共がその十全の御教えをいかにも何か難しい事あるけれども一つ一つそれを自分の身に付けていく、と言う事はもう楽しう有難う、しかも愉快にしかもおかげが確かと言われる確かなおかげを頂き頂きの事でございますから私はあの本気でその信心を体得しなければならないと思うです。
 私は今日こちらへ出てくる時、外があんまり明るいものですから電気がついてるのかと思うて窓ガラスをこう開けて見ましたら、もうそれこそあの煌煌たる満月のお月様が照り輝いておられるのを拝ませてもろうてそれこそ自分の心の上にもああいう、それこそ雲っ気一点ない十五夜のお月様のような心を持ちたいなあと思わせながら出てまいりました。
 皆さん今日はこちらへ通って見える時にどうだったでしょう、あのお月様を拝みながら何か感じられたでしょうか。まるきっり昼をあざむくと言うのは、ああ言う月の光を言うのであろうと思わせてもろうたね。私は結局十全の教えでなからなけれは、あの十五夜のような心にはなれないと思うですね。欠げると言う事がない。
 あれは藤原道長でしたかねえ。これは大変意味が反対な事ですけども「この世をばわが世とぞ思うもち月の欠げたる事もなしと思えば」とまあ驕りに驕った、これは歌だと言われておりますね。けれども私は思うのに本当に欠げたる事もなしと思えばといつも思えてそこに心からなる喜びを感じれれるおかげを頂きたい。
 いつも心は三日月さん三日月さんどころぢゃない。もう暗の闇で日々過ごすような事では信心頂いとる値打ちはないですね。折角いわゆる十全の御教えをしかもその気になりゃ誰でも頂ける、誰でも行じられると言う。そしてね、その有難い事には、あのそこの合楽の久保山さんぢゃないですけれども、もう八年目になられたでしょうか。合楽にここに移って来てから本気で打ち込んで毎日日参されるようになって八年位でしょうか。
 もうこの方はもう日々成行きを大切にさせて下さい。尊ばせて下さい。もうこの一点張りのまあ言うなら信心ですが。その久保山さんの信心を見ておるとですね。ハハア金光様の御信心なあれもこれもと言う事はいらんなと、もし本当にこの教えに取り組んで徹していたらね。いつのまにか我情が取れて行く、我欲が取れて行く、そして育っていくのは和賀心だと言う事です。まあだ七、八年の信心でよう、これだけの事が出けられると言う様な信心が出けられます。 これは我情を取らな出来るこっちやない。これは我欲を取らなけれは出来るこっちやないと思われるような信心ぶりなんですよ。願いもやはりもう兎に角、村内の一軒一軒の助かりをまあ願っていかれます。本当にもう婦人会の役員をなさっとられるそうですが、まあ色んなちょっとした事がもめにもめるんですけども、そう言う時に御取次を願っていかれるんですけれども本当に、もし私が頂いておるような心の状態でなら、各部の婦人あのここの婦人ぢゃないですよ。合楽の部落のですよね。合楽ぢゃない大橋ですね。
 大橋の方達がおったら本当に事と言うものは、もうどんなにスム-ズに行くだろうか。しかも有難い喜び合うていけれるだろうかと思うたら願わずにおれんと言うておられます。
 いつのまにか信心が育っている、大きくなっていきよる。それはどうかと言うと一つの御教えに徹していかれるとです。こりゃもう本当に感心する位です。徹していかれるのにはね。御主人との問題、子供達との問題、嫁さんとの問題、孫達との問題、そすと又人間関係の全ての上にです、起きてくる、その事柄を言うなら御事柄として受ける受け方を徹底して、いつの合楽の時だったですか、言っておられたが。                      そのいつの間にか我情が取れ我欲が取れて、自分の心の中に喜びが育っていっておると言う意味の発表をされたが、私はそん時に、それを聞いて確かにそうだなあと金光様の御信心なもうあれも覚えてこれもと言う事はいらんと言う事。問題は徹すると言う事ね。
 それをしだごだにするから、いつまで経っても和賀心が育たんのであり、言うなら満月のような心が頂けんのである。そして私は最近は申しませんけど、以前は申してました。本当に慢心が出る位なおかげを頂いてみなさいと。
 昨日は総代さん方の集まりでしたけど文雄先生の事をまあ話した事でした。まあ総代さん達皆に聞いてもらったんですけれども、まあ例えば成程、文雄先生なんかはまあ言うならば今のここの総代さんは皆合楽の子飼いと言う方ばっかりなんですよね。
 何十年間、私の信心を頂いて来てる人達ばっかりなんですよね。その一人一人のまあここでぢゃない、あちらに下がってからでございましたから申しました事でしたけども。文雄さんの信心はまあ、ある意味あいで天才的なものを持っておるね。
 だからあげな真似は出けんとまあ言う人もありますけれども、しかしあの確かに天才と言われるほどしのものを持っておる人は、もう一変にスットおかげを落とす事があるですね。もう一変に鈍才になってしまうね。麒麟児だ、天才児だと言われるような人が青年、壮年になってから又平凡以下の人になっていくと言う例はいくらもあるようなもんです。
 文雄さんの信心な素晴らしい事もあるけれどもね。私はいつもあんたが信心には心配でたまらない。いつおかげを落とすぢゃろかと思うて。所がです。あんたげん、ふんなら家内の場合、良江さんの場合は、私はこの人はまあ天才の反対の鈍才ぢゃなかろかと思う様な、この人がどげな風に育っていくだろうかと思いよったら。
 この頃はもう兎に角朝参りが福岡からばい、日々せずにはおれないと言うふうに育っていきよる、言わば天才と鈍才とが一緒にそまった。これで文雄さん一家は助かるなあ。おかげを頂くなあと言うふうに思うたと言う様な話をした事でした。
 だから、あの人は性格的に天才的なものを持ってあると言うて、兎に角神様はもうそれこそ一様におかげを下さってあると言う事です。ですから私どんな信心な出けんてんなんてん思わずに本気で、合楽理念の一つでもよいからですね。それに取り組んでおかげを頂いておると、いつのまにか言うなら満月の心に近付いていく事が出来るて。私は和賀心そのものが満月の心だと思うんですね。 
 和すれば乱れる事はないね。ときおり、やっぱり真っ暗い墨のような真っ黒い雲がかかるような事があるけれども、その向うのお月様は欠げると言う事ぢゃないね。この真っ黒い雲は、それこそさっきの霊様達の船に乗っておるような話しぢゃないですけどもね。
 やっぱりもう今にもひっくり返りゃせんぢゃろかと思うような事があっても安心しておれれる心なんですね。そう言う信心を身に付けていくと言う事はね。言うならば我身におかげを受けてと今日はありますがね。そこな所が分かって段々ね。そのおかげを頂いてしまわなければ、ではなくてね。合楽の教えが十全である。その十全なものを身に付けていきたい。
 究極の所は天地書附である、和賀心である。又は我身は神徳の中に生かされてある喜びと言うものは我情が取れなければ、我欲がと取れなければと。我情我欲を離れて、真の大道を開きみよ我身は神徳の中に生かされてあり。その神徳の中に生かされてありと言う心が満月なんです。どんな場合であっても、どんなに真っ黒い雲がかかっておってもです。
 神徳の中にある自分と言う事になってくる時に、御礼が言える、喜びが湧いてくるね。そう言う信心をふんなら目指すならそりゃもう合楽理念ちゃまあ一つの教学でもありますけれども、それを全部自分の血に肉にしようとはじめから思うたぶんでは出来ませんね。 言うならばいよいよ成行きを尊ぶ、それこそ大地の心で土の心でと言う様な気持ちになっておるといつのまにか。天の心、美しい心が育ってきとる。いつのまにか我情が取れて我欲が取れている自分に気が付くとまあ久保山さんが言うておられるようにね。そう言う意味で、私は合楽の信心は本気でなそうと思たら誰でも頂けれるんだ、なせれるんだと言う事です。
 あれをかじり、これをかじりせずにね。もう一つの事に徹する事なんだ。今日はまあ恒例の合楽の宴に、いつものように福引きがございます。御理解つきの福引きです。もうこれは本当私はあの、これは本当に思いもかけないおかげだと思うんですけれども。
 私の教は守らんでん、あの引き当てたクジだけは、ずっと守っていかれる言う様な方がいくらもある事に、まあ有難いと同時に一つの驚きを感じております。
 ね例えばあの加藤さんなんかがそうですね。去年一昨年は何ぢゃったか同じ。去年は一日千回の喜びでしたもんね。そすと前の年もやっぱしそんなやったでしょう。だから神様がこうたたみかけるようにして、しかも御夫婦が一緒であると言う所からそれを行じなければおられないわけ。
 毎日お届けをされるのは、どうぞ今日も一日千回の喜びに徹しさせて下さいとね。いよいよ和賀心時代を世に表わさして下さいと言う様な願いをお取次なさいますが。本当にお商売の上に表れてくるおかげと言うものは、もう本当に素晴らしいおかげが表れておるですね。徹していくと言う事です。
 いよいよ今日はだからそう言う意味でね。まあ各自が一人一人の心の中をのぞくようにして下さる御理解のそのまあ御理解付きの福引きをです。皆さんがもう心して頂いて、まあ今日の御理解に合わせるならば、その事を自分の一つのかけ守のように頂いてね。
 あれもこれもぢゃない。神様がこれをと言うて下さるそれに徹する事ね。そう言う手立てを今日は皆さんに頂いて頂きたいと思います。「どうぞ」